昭和42年6月20日  朝の御理解


 昨日ある方から長々としたお手紙を頂いた。そのお手紙の一節ですけれども、これはひとつの難儀な問題に対して、夫婦兄弟三人が集まって、いろいろとお話をさして頂いて、ま、結論としてですね、今日は三人でいろいろ話し合いましたけど、信心とはどうしてこのように有難いものであろうか、素晴らしいのであろうかと、あらためて深く強く三人共心に頂きました、ということが書いてあった。
 ひとつ難儀な問題を話し合っておる兄弟夫婦三人が、結論としてそういう風に答えが出てきた訳ですね。信心とはどうしてこのように有難いものであろうか、どうしてこのように尊いものであろう、素晴らしいものであろうかと、私は信心とはそこまでいかなければダメだと思うですね。信心しておるのにどうしてこのようなことがおこってくるであろうか、と云うておる時には、もう信心がとどまっておる時なんです。信心とはどうしてこんなに素晴らしい有難いことであろうかということなんですね。
昨日は合楽会の例会日でございました。共励殿にもう一杯でございました。あの三つの机を囲んでもうぎっしり、又新しい方 二、三人見えておられましたが、石浦、指出の方達で、部落の方で殆ど女の方でございましたけれども、本当にあの私は有難いと思うんですね。
勿論その会の時だけしか出て来ないという方もございますけれども、非常にその雰囲気が信心の雰囲気に度々なっていくことですね。いつも丁度九時半頃から十二時二時間半あまりもうみっちり信心話でうまっております。もう立つのが勿体ないといったような中にもう十二時ですから、もうみんなこれで御無礼さして頂きます、もうお茶の用意から、全部いつもしてみえるんです、後片付けまできちっとしてから帰られます。その中にあの方は何というでしょうか、足がおかげ頂いたという人は、幸若さん、この方なんか、もうとにかく有難い、有難いの中にですね、大体、リュウマチ神経痛で座る時に、立つ時に仲々立てなかったり、座れなかったり、又道歩きが兎に角その変な格好で歩かなきゃ出来ないという方が、帰りがけにですね、もう思わず知らず立っておった、歩いてみたら痛くない。もう先生こんなおかげを頂きましてと云うて、改めてお礼を云うて帰られた方達があるようにですね、その雰囲気がそれで感じられるでしょう。それでそのおかげを受けて皆さんがいろいろお話になります、丁度婦人総代さんの久富さんも、久富みつかさんですね、夕べの御祈念に出てきておられましたから、あちらが一番はじめに信心の、私は久富さんの話をはじめて聞きましたが、もう堂々としてですね、皆さんの前でお話をされるんですよ、皆さんも時々出て見えられるといいですね、そして信心のいわば先輩としておかげを受けておることを話されるようなお繰り合せを頂かれるといいと思うです。
それで結局、信心とはどうしてこのように有難いことであろうかと、信心とはどうしてこんなに素晴らしいものであろうかという事がです、おかげを受けるということに、まあだあるんですね、おかげを受けておるという事、その中に段々、ここの田中さんですね、田中さんとか中村さんあたりが、日参組の方達のお話を頂いておりますと、もう本当に信心の稽古というものは有難いもんだと思うんですけれども、信心頂いておるという事は有難いということがですね、おかげを受けるということだけではなくてです、例えば田中さんの発表の中にある親戚の方のことを、或る咄嗟の場合ですね、お風呂の中におったから、お風呂の中で一生懸命御祈念さして頂いた。そしたら何しよんなさるですか、御祈念さして頂きよる、ほう風呂ん中で風呂ば拝まんでんち云うて、そのまあ云われた。けれどもその雰囲気の素晴らしいのに、みんなが感心し、自分も有難いと思うた、といったな話をなさっておられます。中村さんなんかは、今あの熊本の方へひできさんという子が今あの左官の弟子に行っとります、ここで左官の御用頂きよった人のですね、仕事の稽古に行っておるんです、もうその神様のことを云うてくるんですね、電話を掛けてきて何でも、もうとにかく十八日の月次祭の日にちょっと帰らしてもらうからと云うて帰って来とりました。で、お母さんにその、もうとにかく私がこたあ心配せんで良か、もう私がこたあ心配せんで良かけん、お母さんな一生懸命金光様にお参りして、信心してくれんのというような言い方なんですね、とてもとても他人の飯を食うて、而もその左官の仕事を教えてもらうのですけん、誰がニコニコして教える人があるもんですかね、出来たものを叩き壊しもするだろう、苦い顔もされるだろう、兎に角他人の飯を食うということは、そんなにみやすい筈じゃないです。けれども私のこたあお母さん心配しなさんな、金光様に一生懸命お母さん参ってくれんのと云う、丁度切符市場のあちらの奥さんも見えとられましたけれども、もう兎に角いつも感心する、もういつも親子で会のある時にゃ送って来なさるが、もうにこにことしてから、普通ならばもう帰らんとか、行かんとか云うようなことがありがちなのにです、もう本当に感心なものだと云うておられましたがです、その信心の有難さというものがですね、親の信心の有難いというものが、自分の周囲に伝わっていく、又は自分の子供達にそうして浸透していきよる、それが私共の場合なんかは、一人の子供だけじゃない、どの子もこの子もそうゆう風な雰囲気になっていきよるということが有難いと云う。もうこれは昨日のお話のなかでの、いわゆる信心は有難いものだという事が、高度なものになっていきよるとですよね、
昨日ここに頂いておる手紙なんかというのは、もっと高度ですよ、もう本当に難儀な問題、ところがその難儀な問題を三人で検討して行くうちにです、なんと信心とは素晴らしいことであろうかと、何と有難いものであろうかというところに結論が出ておるということね。
 私は特にこの合楽の合楽会の中で感じる事はですね、あれだけの人数の中に、他人の悪口が出ないことですね、会長さんの中村さんもう私ゃ他人の悪口ば云うとが一番好かんという、こういう風な生き方なんです、ですからもう出ようが無いです。そしてまあまとめて云うならね、こういうことになっていきよるんですよ、第一お道の信心のこりゃそういうあり方にならなければならない。
 教祖がはっきり仰っておられる。第一他人を軽うみないという事です、もう皆んなお互いが尊重し合うたという事ですね。尊重し合うておる、村の出来事でも、次にはですね、他人を当てにしないという話しなんですね、もう人を当てにしちゃならんという事、他人を軽うみちゃならん、それからもう他人ば利用することが一番好かんち、これが、それから他人を当てにしない、他人を責めない、私はその皆さんが一口一口のですね、お話の中からこういうようなものと感じとったんですよね、ほう素晴らしい事だなあと思いましたです。皆さんも一つ覚えといて下さい。一つ、他人を軽うみない、金光様の信心がですね、こりゃもう一番そうでなからにゃいかんのです。神様の氏子としての見方、頂き方なのです。あ、それから人にですね、恩をきせない、こげんしてやった、例えば嫁さんにでんなんでん私がこげんしてやっとったろがの、というようなことは云わん、もう恩きせがましい事を云うとが一番好かんといったようなことがですね。人に恩をきせない、それから人を利用しない、人を当てにしない、人を責めない、他人を軽うみない、人に恩をきせない、人を利用しない、人を当てにしない、人を責めない、信心を頂いて、これが完全に出来とるという訳じゃないけれどもです、こういうようなことをめいめいがです、ひとつのモット―としておられるという事ですね。そういう話を だから二十何人の方の中から出てきた話を、私がまとめてみたんですよ。そして私共がこうして日々信心の稽古をさして頂く者がです、本当に本気でここんところを私は稽古していったらですね、素晴らしい結果が生まれてくるであろう、いわゆる信心とは有難いものじゃなあということに、なってくるんじゃないかと思いますね。
信心とは尊いもんだなあということなんです、他人を責めてはおらんだろうか、他人を当てにしてはおらんだろうか、他人を利用しよる、他人を軽うみておる、そこに(     )ことをしてあげた。こうしてあげたというて他人に恩をきせよる。そういうような私は日常生活の中に、信心がお互いなされていったらですね、いよいよ信心とは有難いものだなあ、成程唯話を頂いて、そういう有難い雰囲気の中にあってです、本当に立てなかった足が立ったというような、おかげを頂くという事だけではなくて、そういうことも有難い事に違いないのであります。同時に田中さんの発表のようにです、誰彼のことをその場で、そこで祈らなければおられない信心が生れてくるのです。私共が何十年の信心をしとったけれども、椛目にはじめてお参りさして頂いた時に先生から、あなたがもう今日こうやって話よんなさるけれども、・・?ようなところを頂よりますよ、と言われたがほんとに私の信心はですね、地についておらなかった、まだ今の信心が地ついておるとは思わぬんけれども、今はですね、こういうことを云われますですね、もう本当に信心の稽古をすることが楽しみだということです、而もですね、楽しみということがね、一生懸命お参りをする、一生懸命御用を頂くということを楽しみという中にはです、もう実感として神様のおかげの素晴らしさというか、タイミングの素晴らしさという体験がなからなければ、そりばって続けられませんという事と云うとられます。これはもう合楽の信心がそうですもんね、五年、十年一生懸命信心の稽古をしとりましてもです、願っておこることはまあ、おかげになっとらんにいたしましてもです、日々の中に生きた神様を体験さしてもらうということがなからなければ、その修行もいわゆる地についた信心も出来ません。
そういうような表現をしておられます、お互いが信心がどうでしょうか、地についた信心が出来ておるだろうか。
佐賀の方に田植えの加勢に行っとられました、けれども昨日はもうその換わり遅うございました。けれどももう兎に角合楽会の為に、それこそもうブ―ブ―やって帰ってきよんなさいます、誰でもあのひとつの勢い込んでいる時には、あんなもんだと思いますけれどもね、そりゃもう親戚の遠いところに行っとるとじゃけん、もうあん時ゃ御無礼しましたでも良いけれどもですたい、折角合楽の皆さんが信心の稽古に集まって楽しんで見えるのに、自分が居らなかっちゃすまんといったようなものなんです。中村さんなんかもそうでした。
 昨日何かお客さんが多くてから、はずせなかったんですけれども遅うからじゃったけれども、矢張り一生懸命なって見えとられました。合楽の方達の信心がどうこうと云う訳じゃないけれども、信心を少しでも分からして頂こうという、その意欲に私は敬服いたしましたですね、そしてまとめて申しますなら、只今私が申しました、それが一人でそげんなることじゃないけれども、みんながですね、そういうひとつのモット―を持っておられるということです、それを私が五つでしたかね、のことにまとめてみましたが、そういうようなことが本当にどのひとつでも信心さして頂くなら、稽古さして頂くなら、おろそかにしてはできないような、そういう事柄の中から、本当に負うた子に教えられるような気持ちで、昨日お話をさして頂いたので御座します。どうぞひとつお互いの信心のモット―はどこにおいてあるだろうか、そしていよいよ信心をすすめていかなければならん、成程おかげの受けられん筈だといったようなものをそこから分からしてもろうて、おかげを頂いていかなければならんと思うですね。
                        どうぞ